Masuk伝令が正殿へ向かって走り去ったあとも、西の荷門を取り巻く騒ぎは収まらなかった。
第一陣を捕らえたことに気づいているのは、作戦に加わった兵たちだけだ。大門の前では相変わらず民衆が外へ出してくれと訴え、黄色い布を巻いた者たちがその不安を煽っている。遠くでは火の手が上がり、夜空を赤く染めていた。
楚凌は、手の中にある小さな煙筒へ目を落とした。
――荷門確保後、青煙二筋。
短い書付には、それしか記されていない。
第一陣の役目が荷門の確保なら、青い狼煙はその成功を知らせる合図と考えて間違いないだろう。しかし、その後に何が起きるのかまでは分からない。次の部隊が荷門から入ってくるのか、それとも内応者が大門を開くまで外で待機するのか。
陸曜がどこまで前へ出てくるのかも、まだ分からなかった。
「楚凌殿」
声をかけられ、楚凌は顔を上げる。
先ほど捕虜の収容を命じた門兵だった。
「捕らえた者はすべて拘束しました。内通していた兵も別にしております」
「
城外から近づいてくる騎馬の列を、楚凌は城壁の陰からじっと見つめていた。白旗を三度振ってから、さほど時間は経っていない。それでも待つ時間は妙に長く感じられた。大門は開いたまま、門前には敵兵から奪った旗が掲げられている。捕虜の装束をまとった味方の兵も、外から見える場所に数人だけ配置していた。城外から眺める限り、王都の大門は完全に反乱軍の手へ落ちたように見えるはずだった。「先頭、騎馬十数騎」隣の門番頭が低く告げる。「後方にも兵が続いております。百……いえ、それ以上かと」「本隊ではないな」「はい」楚凌は小さく頷いた。陸曜は景衡軍すべてを連れてくるつもりではない。慎重な男だ。王都の大門を確保したとの報せを受けても、まずは自ら護衛を伴って入り、内部の状況を確認する。その後に本隊を動かすつもりなのだろう。それでいい。むしろ、その方が都への被害は少なくて済む。楚凌は城壁から降りると、門の内側に配置した兵たちを見回した。誰も声を出さない。槍を握る手に力が入り、弓兵たちも暗がりの中で息を潜めている。「陸曜本人を確認するまで動くな」楚凌は念を押した。「護衛だけが入ったところで門を閉じれば、外に本人が残る。それでは意味がない」「はっ」「それから、敵が入ってきても騒ぐな。最後尾まで十分に門を越えさせろ」門番頭が頷いた。楚凌は腰の剣へ手を添えた。背中が熱い。包帯の下では火傷が脈打つように疼き、肩の傷も先ほどの戦闘でまた開いたらしい。衣の内側へじわりと血が滲んでいるのが分かった。だが、不思議と身体は軽かった。痛みを感じないわけではない。それよりも、今まで散らばっていたものが一つの場所へ集まってくるような感覚があった。将軍だった自分。門番へ落とされた自分。蘭珠を妻として迎えた自分。そのどれもが、今夜この門
紙問屋の屋敷へ移ってから、どれほど時間が経ったのだろう。蘭珠には、もうよく分からなくなっていた。外では今も騒ぎが続いている。遠くで警鐘が鳴り、ときおり人々の叫ぶ声が夜の静けさを破る。窓は固く閉ざされていたが、どこかで燃えている火の臭いが、かすかに部屋の中まで入り込んでいた。それでも、先ほどまでに比べれば屋敷の中は落ち着いている。楚凌がここを離れる前に周囲の安全を確かめ、紙問屋の者たちも蘭珠が休めるよう奥の一室を用意してくれた。さらに、しばらく前には宮中から侍医と護衛の近衛まで到着している。皇太子が寄越したのだという。それを聞いた時、蘭珠の胸には複雑なものが込み上げた。景炎が自分の身を案じている。以前なら、それだけで心が満たされたのかもしれない。あの人が自分を気にかけてくれた、その事実だけで嬉しくなり、もう一度顔を見たいと願っただろう。けれど今は、その気遣いを素直に喜ぶことができなかった。「蘭珠様、お水を」声をかけたのは、これまで身の回りを手伝ってくれていた女だった。その隣では、紙問屋の娘である芳玉も、湯や布を運びながら落ち着かない様子で蘭珠を見守っている。「ありがとうございます。でも、本当に皆さんまで付き添ってくださらなくても……」蘭珠は申し訳なさそうに笑った。「私はもう十分にお世話になっています。お屋敷まで貸していただいて、そのうえ芳玉さんまで……」「そんなことを仰らないでください」芳玉はすぐに首を横へ振った。「蘭珠様には、私の縁を取り持っていただいた御恩があります。それに、今はそんな遠慮をなさっている場合ではありません」手伝いの女も、少し困ったように笑う。「そうですよ。私は元々、蘭珠様のお手伝いをするためにおりますから」二人にそう言われ、蘭珠はそれ以上断ることができなかった。ありがたい。だからこそ、余計に申し訳ない気持ちにもなる。自分の事情で、どれほど多くの人を巻き込んでしまったのだろう。蘭珠は寝台の上で、そっと腹へ手を置いた。子は無事だ。侍医にもそう言われた。足の傷も深刻なものではなく、しばらく安静にしていれば問題ないという。だから今は、待つしかない。楚凌が戻ってくるのを。「……また」腹の奥が、きゅっと縮んだ。蘭珠は眉を寄せる。先ほどから何度か同じ感覚があった。最初は強い痛みではない。腹が硬
青い狼煙が二筋、夜空へ立ち昇った。王都の西側では、なお火の手が上がっている。赤黒い煙の向こうに混じる青はひどく異様だったが、それこそが敵にとっては待ち望んでいた合図だった。楚凌は城壁の上から、城外に並ぶ松明を見つめていた。やがて、その一角が動く。「来ます」隣にいた門兵が低く告げる。暗闇の中から、まとまった兵の列がこちらへ進み始めていた。先頭に数騎の馬があり、その後ろを歩兵が続いている。人数はおよそ三百。第一陣よりはるかに多いが、城外に残された本隊全体が動いたわけではない。陸曜は、まだ慎重に様子を見ている。楚凌はそう判断した。「大門前の民は」「すでに別の通りへ誘導しております。火から離れた場所へ避難させました」「よし」楚凌は城壁を下りる。西の大門へ向かう間にも、門番たちは慌ただしく動いていた。だが、その動きは城外から不自然に見えぬよう抑えられている。内応者の一部はすでに捕らえていたが、敵にはまだ知られていない。今夜、最も重要なのはそれだった。相手に、こちらが何も気づいていないと思わせる。そして、勝利したと思わせる。大門の前へ着くと、楚凌は巨大な扉を見上げた。この門を開く。将軍だった頃なら、敵兵が目前に迫る中でそんな命令を出す自分など想像もしなかっただろう。だが、門番となった今は違う。門は閉ざすためだけにあるのではない。人を通し、止め、その流れを変えるための場所でもある。毎日ここへ立ち続けたからこそ、どこまで開けば隊列が滞らず、どこへ誘導すれば城外から姿が見えなくなるのかも分かっていた。「開門の準備を」楚凌が命じた。門番頭の顔に緊張が走る。「全て開きますか」「敵が疑わぬ程度までだ。三百が滞りなく入れる幅を確保する」「承知しました」閂へ兵たちが取りつく。何人もの男が力を合わせ、太い木材を持ち上げる。重い音が響き
伝令が正殿へ向かって走り去ったあとも、西の荷門を取り巻く騒ぎは収まらなかった。第一陣を捕らえたことに気づいているのは、作戦に加わった兵たちだけだ。大門の前では相変わらず民衆が外へ出してくれと訴え、黄色い布を巻いた者たちがその不安を煽っている。遠くでは火の手が上がり、夜空を赤く染めていた。楚凌は、手の中にある小さな煙筒へ目を落とした。――荷門確保後、青煙二筋。短い書付には、それしか記されていない。第一陣の役目が荷門の確保なら、青い狼煙はその成功を知らせる合図と考えて間違いないだろう。しかし、その後に何が起きるのかまでは分からない。次の部隊が荷門から入ってくるのか、それとも内応者が大門を開くまで外で待機するのか。陸曜がどこまで前へ出てくるのかも、まだ分からなかった。「楚凌殿」声をかけられ、楚凌は顔を上げる。先ほど捕虜の収容を命じた門兵だった。「捕らえた者はすべて拘束しました。内通していた兵も別にしております」「死者は」「おりません。矢を射かけようとした者が一人、取り押さえる際に腕を負傷した程度です」「そうか」楚凌は小さく頷いた。敵兵を生かして捕らえられたのは大きい。だが、喜んでいる暇はなかった。城外の敵からすれば、第一陣を送り込んでからそれほど時間は経っていない。今ならまだ、計画が予定どおり進んでいると思っているはずだ。時間を置きすぎれば、逆に怪しまれる。「楚凌殿!」今度は別の声が飛んできた。振り返ると、正殿へ送った伝令が息を切らしながら戻ってくるところだった。「殿下よりご命令です」男は楚凌の前で膝をつく。「青い狼煙を上げることを許す。ただし、敵の動きを確認するまで大門は決して開くな。西側の守備については、引き続き楚凌殿の判断に任せる、と」景炎らしい命令だった。楚凌の策を認めながらも、王都そのものを賭ける最後の一線だけは越えさせない。「承知した」
西の荷門は、火事から逃れようとする民で溢れていた。夜になっても王都のあちこちでは火の手が上がり、赤黒い煙が空を覆っている。炎が直接ここまで迫っているわけではない。それでも、人は恐怖に追われる。子どもを抱いた母親、荷を背負った老人、家族の名を叫ぶ者たちが閉ざされた門へ押し寄せ、どうか外へ出してくれと声を張り上げていた。「門を開けてくれ!」「このままでは焼け死ぬ!」「子どもがいるんだ! 頼む!」門番たちは槍を構えていたが、民へ刃を向けることなどできない。押し寄せる群衆を肩で押し返しながら、将棋倒しが起きぬよう必死に門前の空間を保っている。楚凌は少し離れた場所に立ち、その光景をじっと見ていた。身にまとっているのは将軍の鎧ではなく、いつもの門番の装束だった。腰には剣を帯びているが、背中の火傷は包帯の下でなお熱を持ち、肩の傷も動くたびに鈍く疼く。それでも、視線だけは冴えていた。見るべきものは、目の前の騒ぎそのものではない。民衆の中に紛れ込んでいる者たちだ。一人。二人。三人。腕に黄色い布を巻いた男たちが、人混みの中へ散らばっている。服装は町人と変わらない。だが、動きが違った。火を恐れている様子がない。外へ逃がしてくれと門へ殺到するでもなく、周囲の者と声を合わせて助けを求めるでもない。民衆の関心が、閉ざされた門をどうにか開けてもらうことへ集中している中で、彼らだけは門番の人数や配置、小門へ続く脇道、警備の薄い場所を注意深く窺っていた。楚凌は目を細める。(……やはり、ここだ)彼らは逃げようとしているのではない。門を開けようとしている。その確信は、もう揺らがなかった。「楚凌殿」隣に控えていた若い門兵が、低い声で呼ぶ。「黄色い布の者が増えております」「分かっている。まだ動くな」門兵が息を呑んだ。今なら捕らえることは難しくない。だが、ここで内応者を押さえれば、城外に待機している景衡軍へ異変を悟らせるだけだ。相手に計画が露見したと知られれば、別の門を狙うか、力攻めへ切り替える可能性もある。必要なのは、敵に勝ったと思わせることだった。その時だった。群衆の中央から、突然大きな声が上がる。「門を開けろ!」黄色い布を腕へ巻いた男だった。「俺たちを閉じ込めて殺すつもりか!」その声に、恐怖で張り詰めていた民衆が一斉に反応する。「
侍医が楚凌の肩へ新しい包帯を巻き終える頃には、正殿の空気も少しずつ落ち着きを取り戻していた。怒号が消えたわけではない。だが、それは混乱から生まれる悲鳴ではなく、命令を伝え、兵を動かすための声へ変わっている。景炎は地図を前に立ったまま、武官たちへ次々と指示を飛ばしていた。「西の荷門は平時どおりの警備を続けろ。門番を総入れ替えするな。黄色い布を巻いた者を見つけても、こちらから捕らえる必要はない。監視だけに留め、決して敵へ異変を悟らせるな」「はっ!」武官たちは一斉に頭を下げ、それぞれの持ち場へ散っていく。その中で、一人の門番頭だけが足を止めた。白髪混じりの老兵は、納得できないという表情で楚凌を見る。「楚凌殿。門番にとって、門を守ることは何よりの務めです。敵が門を開こうとしていると知りながら手を出さぬなど、若い者たちは戸惑いましょう」楚凌は静かに頷いた。その気持ちは痛いほど分かる。三か月前の自分なら、同じことを口にしていただろう。「見逃すのではありません」穏やかな口調で答える。「敵が勝ったと思う、その一瞬だけ待つのです。景衡軍は内応が成功したと信じなければ動きません。ならば、その油断を利用します」門番頭は腕を組み、しばらく考え込んでいた。やがて深く息を吐くと、ゆっくり頭を下げる。「承知いたしました。若い者たちにも、そのように伝えます」楚凌は小さく頷いた。老兵が去ると、侍医が困ったような顔で包帯を結び直す。「これで終わりです。ですが、火傷も肩の傷も決して浅くはありません。どうか無理だけは……」楚凌は肩をゆっくり回した。鈍い痛みが走る。それでも腕は上がった。剣も握れる。「十分です」短く答えると、侍医は諦めたように肩を落とした。「戻られたら、今度こそ安静にしていただきます」「約束します」楚凌は穏やかに笑い、壁際へ置かれていた装束へ歩み寄る。武官の一人が恭しく将軍鎧を差し出した。「楚凌殿。こちらをご用意いたしました」銀の飾り金具が灯火を受けて静かに輝いている。かつて幾度となく戦場で身につけた鎧だった。楚凌はそれを見つめたあと、静かに首を横へ振る。「必要ありません」武官が驚いたように目を見開く。「ですが、この戦は――」楚凌はその言葉を遮ることなく、隣へ置かれていた門番の装束を手に取った。質素な衣だった。
門番宿舎で暮らし始めて、一ヶ月が経った。華やかな宮中は、もう遠い。 朱塗りの柱も、香の煙も、絹の衣擦れもない。 ここにあるのは、土と木の匂いと、夕方になると肌にまとわりつく湿気だけだ。蘭珠は、まだ慣れずにいた。慣れないのは、家の狭さでも、貧しさでもない。 慣れないのは、自分の立ち位置だった。夫と呼ばれる男が隣にいる。 けれど楚凌は、蘭珠を「妻」として扱うより、「主の妻」として扱っている。 声も、視線も、距離も、慎重に保たれていた。妊娠初期のつわりは思った以上に重い。 朝、粥の湯気を嗅いだだけで胸が波立つ日もある。そんな日々を支えているのが、通いの下働きだった。名は周
楚凌が東門の見張りへ向かったあと、蘭珠は静まり返った小さな家の中を見渡した。こんなに“やることだらけ”の空間に放り込まれたのは、生まれて初めてだった。「……えっと。まずは、お掃除……かしら」宮中では片づけは侍女の仕事だった。 蘭珠が持つ箒の使い方は、見よう見まねでしかない。それでも、やらなければならない。(楚凌様は……わたくしのために働きに出てくださっている。わたくしも……できることを)意気込んだものの、数刻後。部屋の隅には、掃いたはずの塵が小さな山を作り、桶いっぱいに汲んだ水は床にぶちまけてしまい、洗濯は桶に浸けただけで腕が疲れて動けなくなった。「ど、どうしてこんなに難
景炎が凱旋して三日。蘭珠はまだ、夫とまともに言葉を交わせていなかった。今日はようやく「皇太子妃として景炎へ正式に挨拶する日」。胸が痛むほど緊張していたが、それでも蘭珠は信じていた。(殿下は……きっと、変わらず接してくださるわ)だが、扉が開かれた瞬間、胸の奥に冷たい予感が走る。礼服姿の景炎が入ってきた。その背後に寄り添うように歩む白衣の女――雪瓔。その姿を見ただけで、蘭珠は息を呑んだ。彼女はやはり美しい。だが、美しさ以上に「気配」が異様だった。空気が揺れるような、ひどく静かな圧。蘭珠は彼女と会うのは初めて。しかし、遠くから見ただけで、全身が粟立つような感覚が走った。
景炎が出陣して三十日。蘭珠は毎朝、宮門のほうを見つめる癖がついてしまっていた。勝利の報せは届いた。しかし景炎本人からの文は、最初の一通きりだ。「必ず戻る」と記された、あの短い文を最後に。蘭珠は机に向かい、書きかけの返書をゆっくり丸めた。何度書いても、出す前に胸が疼く。(殿下……どうして何の返事もくださらないの)体を動かさなければ、涙が溢れてしまいそうだった。だから庭に出る。ゆっくりと歩き、朝露の光る芍薬の花を眺める。けれど、心は晴れない。そこへ突然、侍女の梅香が駆け込んできた。「蘭珠様! 急ぎのご報せです!」「景炎の……殿下のお便りかしら!?」期待が一気に胸へせ







